第二章 自然と吾人

宇宙の森羅万象即ち天地間のすべてのものは、皆自然の力によって作られているものである。

その大自然は、我々人間はもちろん、鳥獣草木その他生命あるものにはその生命を守護する能力を授与しているのである。その能力を自然治癒能力と言っているのである。

 

立木の皮を剥いたり枝を切ったりすると、そこで自然とまた皮ができる。これを自然治癒力というのである。

我々が悪くなったものや害になるものを食べたときはそれを吐す場合が多いが、それはその害を防ぐために自然機能がその食べたものを突き返す自然療能である。

我々が負傷した時には、包帯をしておけば、自然と血も止まり傷も治るのである、これみな自然治癒力によって治るのである。

 

自然治癒力は他の動物においても然りである。

動物は如何に大病でも大負傷でも医師も薬もあったものはではなく、もちろん養生も衛生もあったことではないのである。

然るに我々がみてこれは到底助かるまいと思った大病や大負傷が案外に早く治ってしまったという例は見聞したことがあるだろう。それはかくの如くにこれを治す能力が大自然から授けられているのである。

 

難病者が医師に見放されて、「どうせ助からないなら嫌な薬はやめて食べたいモノを食べ飲みたいものを飲む」と、節制も衛生もなく気ままにしていたら、かえって病が治ってしまったということも珍しくないのである。これ皆自然治癒力によって治るのである。

 

かくの如く人間や動物、いな生命ある全てのものには、その生命を守護する能力が大自然から授けられているのである。

 

然して病にかかったり、負傷したりしたときにはそれが作用して薬など用いなくても医師の力を借りなくても神仏に祈らなくても自然に治るのである。

 

ともうしても会長は自然万能論者ではない。無論薬物医療等の不要を説くものでもない。確かによく効く薬物もあり医療もあり、物理療法もある。しかし、いかによく効く薬物でも医療でも自然療能がなければ絶対に病は治らないのである。

結局薬物も医療もその他人為的療法も自然療能の助力となるに過ぎないのである。

 

所でこの自然療能は精神に支配されるのである。

故に我々の心の持ち方によって。「よく作用する」こともあり、また「作用しない」こともあり、またあるいは「特に猛烈に作用する」こともあるのである。

然して、この自然療能がよく作用すれば病はずんずんと治り、これに反して自然療能が作用しない時は如何に妙薬を飲んでもその病は治らないのである。

 

妙薬を浴びるように飲んでも一向に病が治らないという病人は、自然療能が作業していないか、またはよく作用していないからである。

 

故にこうゆう患者は、まず速やかに自然療能を猛烈に作用させる方法を講ぜねばならぬのである。

 

 

ある病の女性が、様々な薬や医療を施し、節制を重ね注意に注意を重ねていたが治らず、薬も医療も捨て、不摂生も甚だしい生活を続けているほうが病が治ったのである。

 

これは即ち、自然療能作用によって治ったのである。

 

つまり先ほどの女性は、毎日毎日悩み続けていた=その心の悩みは自然療能の大妨害となった=故に自然療能が作用しなかったのである。

 

病を治す主力となり原動力となる自然療能が作用しない病人に、その補助力となるに過ぎない薬物や医療は効果はないのである。ちょうどゼンマイが駄目になっている時計に油をくれるようなものである。時計を回す原動力となっているゼンマイが駄目になっている時計に、その補助力となる油をくれてもその時計は回るはずはないのである。

 

多くの人は安静とは静かに寝ていることがだと思っているが、なるほど、これで「肉体だけは安静である」が精神の安静は得られていない人が多いのである。多くの患者は寝ていればかえって次から次へと心配する懊悩する悲観する、そして寸時も心の落ち着くときがないのである。これすなわち「心が大動乱を続けている」のである。かくの如き精神の動乱は自然療能の大障害となるのみではなく、自然療能を抑えつけてしまうものである。自然療能の活動しない身体に居所をかまえた病菌は前後左右に敵もなければ妨害物もないのである。即ち、病菌にとっては絶対の案住所で繁殖するには申し分のないところなのである。

 

故に如何に安静にしているつもりでも肉体だけの安静では病菌の繁殖にはかえって好都合になるのである。こんな安静は死期を早めるのみであり、安静にせざるには打ち劣ることになるのである。

 

故に安静を要する病人はまず第一に心を安静にする方法を講ぜねばならず、それには好きな音楽を試みるもよし、聴くもよい、また修養書等をみるもよい、要するに病を忘れて心を悩ませぬ方法を講ずればよいのである。

 

しかし、それでは消極的の心の安静であって理想的ではない。もっともっと積極的に病を駆逐し撃退しうる勇猛心を作る方法を講ぜねばならないのである。

 

ある医学博士曰く

日本人は薬の好きな人間だ、別に薬を与える必要のない病人でも何か薬をください、と要求して止まないから仕方なしに薬を与えることが多いのだ。

と。

また、林医学博士は曰く

私はできるだけ薬は与えぬ方針である。薬は誠に止むを得ざる場合にもちうべきものである。人間の身体のためになる薬というのは非常に少ないので、薬には各々長所と短所があって、長所から短所を差し引いてその残りの小部分が身体のためになるに過ぎないので病気に効くところのものは胃を害し、頭を鈍らせ栄養を悪くしエネルギーを消耗せしむるものが多いのであって積極的に身体に役立つ栄養素ではない、薬はつまり毒物であってその毒物の長所をよく働かせているその間に病人自身をして栄養を回復せしめ生理的官能を鞭撻して普通の健康状態に復帰せしめるに過ぎないのである。

 

健康状態に復帰せしめる生理的官能を鞭撻するものは精神である、のである。

 

一にも薬、二にも薬で精神療法を迷信視している人々は右の各医科の言をよく味わうべきである。

 

医学博士小山田克己氏曰く

現代医学の範囲は、天然の療能を補助するに過ぎぬ、今の医学は外科的に属するある手術と伝染病に対する一部分を除くその他は依然治療医学は暗黒面である。心理的治療を施す必要のある患者には精神的の感化を与えなければならないことはもちろんである。

吾人の称して心理的治療というものは霊妙なる精神的治療を指差すものだ、然してこの療法は不可思議なる療法にあらずして一種の技術としての療法なることを信ずる時期の一日も速やかならんことを切望する。

 

医学博士石川貞吉氏曰く

近年理学療法の進歩せるに際し、精神療法をもってほとんど無意味のものとなすは現代の最悪なる流幣なり。

 

以上述べた説明によって、病を治す原動力となり主力となるものは、患者その者にある天然の療能即ち自然療能であって薬やその他の人為的療法はこの自然の補助になるに過ぎぬことをよく悟らねばならぬのである。

 

要するに大自然は我々の生命を守護するために万遺憾なき守護力を我々に授けてくれてあるが、これに反して我々の生命を侵すものすなわち病等は絶対に授けないのである。故に疾病は自然には発生しないのである。

 

結局疾病は知らず知らずのうちに自然に理法に背いて病人自身が製造したものである。然してこの自製の疾病に益々加工して大病にしてついには死亡するのである。神(大自然)は曰く「お前は自分で病を製造して然してその病で死んだのだ=これ自らの死である。病死これ自殺なり。治りたい治りたいと言いながら自ら死に近づきつつある人々よ。一刻も早く神(大自然)が授けて置く生命の守護力を悟れよ。しからば必ず幸福に浴せるものであるぞ」と。